自己紹介 ver.1 〜協力隊に応募するまでの人生〜
1年ブログを続けてから思い出しました。
自己紹介してない、、、!笑
※全然関係ないけど、卒業旅行のトルコ。
というわけでどういう経緯でブログを始めようと思ったかと、僕の自己紹介をしたいと思います。
協力隊に応募するまでの具体的な心境の変化や、具体的な手続きについては次回の記事に記載します。
※本記事は公開して2週間ほど経過したら、1番最初の記事へすり替える予定です。
自己紹介
ブログ名の通り。
2017年1次隊として、モザンビークにPCインストラクターとして赴任しましたのっぴです。
任地は首都から1番離れている、コミュニティ開発隊員と一緒に暮らしているかなりの僻地です。
モザンビークは南部東アフリカに位置する、旧ポルトガル植民地。そのため公用語はポルトガル語です。
※右下のマダガスカル島のむかえがモザンビーク。隣には南アフリカ🇿🇦、スワジランド🇸🇿、ジンバブエ🇿🇼、ザンビア🇿🇲、マラウイ🇲🇼、タンザニア🇹🇿があります。
※首都マプトが地図の1番下。
任地は上の方に青い丸。リシンガ。
そのため、伝統布はタンザニア製のもたくさん手に入ります!
普通PC隊員って学校とかで教えたりするから、電気や設備が揃ってる首都とか都会なことが多いんだけどな、、、
それを見越して応募したのにおかしい。
活動内容
国立農業研究所で所員のITスキル向上と、ITインフラ(インターネット使えるようにしたり、共通のサーバからみんながデータを取り出したりできるように)を整えるのが活動の要請です。
協力隊応募 希望国について
ちなみに任地の志望は応募の時に出すことができます。僕の第一志望は中米のリゾートの国。
もはや名前も覚えてませんが。
ずっとやりたかった子供への教育ということ。
言葉が世界で3番目に使用されている言語のスペイン語であること。
写真がめちゃきれいだったこと。
の三本柱で希望しました。笑
理由不純。
もちろん応募用紙に、2と3番目の理由は記載してませんよ笑
合格通知にモザンビークってあって、「なんだこの国、知らねえ」とか思いましたが。
公用語だけでなく、日常使用言語もポルトガル語とあり、まあ似てるしアフリカ面白そうだからいいか、という簡単な気持ちで決めました。笑
アフリカは公用語と実際に使用する日常使用言語が違うことが多いのです。
応募をしようと思ったきっかけ
青年海外協力隊に応募をしようとしたきっかけは、ずっと海外で働けることに憧れていて、このまま先が見える人生に不安とこのままでいいのか。という焦りを感じたからです。
また、毎日通勤電車に揺られ毎日同じことを繰り返す日々を過ごしていて、今は今で充実しているし楽しいけど。(社会人時代はなかなか楽しい日々でした)
このまま過ごして死ぬときに、やりたいことをやったと思って死ねるか、やりたいことをやれているのか。と問いかけた時に。
それはNOでした。
今がやりたいことをやれているか別として。笑
ほかにも身近な大学の先輩が協力隊でペルーへ行っていたので、その先輩の影響もありました。
ずっと海外で働くことに憧れがあったので、ワーキングホリデーか青年海外協力隊かで最後の最後まで悩みました。
決め手となったのは、
①協力隊派遣までの研修内容が充実していること
②青年海外協力隊は知名度が高く、ワーキングホリデーよりは帰国後の人生に繋げやすそう
③ミッションがあるので、具体的にやりたいことが定まっていなくてもミッションに向けて頑張れる(ワーホリは自分で目標を見つけて努力し続けないと、遊んで一年が終わってしまうという噂)
④経済的な補助がある
⑤子供の教育に携わったみたい
・・・・・・・・。
このように、純粋に途上国へ貢献したい!という気持ちだけではない恥ずかしい理由ですが、こういった理由で応募をすることにしました。
※二本松訓練所
協力隊応募するまでの社会人人生
ここからは完全なる個人の歴史になるので、興味のない方は次の記事はお進みください。笑
元々三年働いてやめよう、と思って新卒で大学卒業後、某IT企業の営業として就職しました。(元会社の方々、僕の姿を見ていてわかっていたと思いますが、改めてすみません)
担当は業種にとらわれない、ネットワーク関連機器の営業部でした。
社会人一年目
1年目の時は僕の破天荒な性格と、ITという自分でも苦手分野ということで、なかなかモチベーションを見出せず、毎日上司に怒られるし、なかなか自分なりには大変だった思い出です笑
今となってはいい思い出だし、あの時上司が愛を持って可愛がってくれたから、少なくとも自分の想像以上の四年という期間働けたのだと思います。
しかもぱっと見明るく、社交性豊か?と思われがちなこの性格なのですが、実はかなり人見知りと物事に慣れるのに人の2倍はかかる性格、ということも相まって、
1年目は職場の人間関係も構築することができずに、今だからいうと「みんな敵」くらいに思っていました笑 唯一当時は全然仲良くなかったけど、1期上の先輩だけが頼りでした。ほぼしゃべってなかったけど。笑 なんかいるだけで安心するてきな。
社会人時代通して、今でも僕には持っていないものを持っているあこがれの先輩です。
※最後はめちゃくちゃ居心地の良い空間でしたよ!
ただそんな不安定な時もなんとかやめずに済んだのは、人生初というと今までの友人に失礼ですが、
これまでにないほどの心を許せる、一緒にいるだけでめちゃくちゃ楽しい、エネルギッシュな同期入社の人たちと出会えたからです。
最終的に仕事を辞めるときも、お金がなくなるや、所属がなくなる、キャリアが傷つく
とかの理由よりも彼らと離れることがものすごく。1番辛かったのを覚えています。
大学時代よりも自由に遊べる時間が少ないからなのか、遊べるお金が増えたからなのか、周りがエネルギッシュだからなのか。
おそらく全てですが、大学時代よりもはちゃっけた、エネルギッシュな刺激的な余暇を過ごし、「こんな世界があったなんて、、!」と思えるほど本当に土日は毎週楽しかったです。
社会人二年目
2年目になり、1年下の後輩が入社してきました。自由な性格に見える私ですが、彼のことは相当気になっていて、
事前の研修でも「彼は優秀」という評判を聞いていたので、彼が配属されるときに緊張で?、嫌すぎて?なのかはわかりませんが、吐きそうな気持ちでした。笑
こういう勘は当たるもので、配属が決まったときになんとなく彼が来る予感がしていたのですが、やっぱり。という感じでした。
配属されてからも噂通り彼はとても優秀で、僕が教えることもないくらいテキパキとこなしており、最初の頃は劣等感でとても悩んでいました、実は。
少し経ってから「彼が正統派に行けばいい、僕は独特のこのキャラで売っていこう」と、
正統派コースは諦め(元々そのコースにはなっていなかったように思いますが)、独自の自分のルートを切り開くことにしました。
またこの頃運命的な出会いもしました。
2年目になり、同じ課の7月ごろにネットワークの知識に社内一詳しい上司が異動になって人員が足りなくなったこともあり、助っ人ということで、他社でエンジニア兼作業員として働いていた方が同じ課に来てくれました。
その方は将来の社長候補だということで、エンジニアだけど、営業も実戦で学ぶという意味合いもあったようです。
2年上先輩にしわ寄せがあってめちゃくちゃ大変そうだったので助っ人の方が来てくれてホッとしたのを覚えています。
助っ人の方はぼくより約10歳年上の方で、実を言うとそれくらいの年代の方が1番苦手でした。笑 ジェネレーションギャップはあるし、けどまだおじさんと言うわけでもないし笑
けどその人は持ち前の柔らかさとユーモアさで、助っ人としてぼくと同行することも多かったのですぐに打ち解けることができました。
そして彼に言われたことが僕にとっては、会社人生に関わる(?)運命的な出会いでした。
ある日、いつものように同行してもらい、終わった後でその日の商談の復習とまとめ、今後の動きについて確認・相談をしていました。
ですが私は2年目になっても苦手なITとなかなか会社に溶け込めないモチベーションも相まって、全然知識を習得できておらず、パッパラパーな状態でした。
話をしていて、その状態を悟った彼から、
「のっぴさん!(年上なのにずっとさん付けされていた)今こそ勉強するときですよ。20代の間は勉強するときです。ぼくの時は専門学校とPCスクールに通って勉強してましたよ」
普段のぼくだったらうざい、と思ってたかもしれません。他の人に言われてもそう思ったかもしれません。
けど当時の私にはその言葉がすんなりと受け止めることができました。やはり一年半たつのに全くIT知識が増えてないと言う現実、苦手なことに背け続けてた人生だけど、
「人生の中で今1番今の瞬間が若い、今勉強しないと今後は絶対やらない」
と言う気持ちがあったことを覚えています。
そしてその知識がその後の営業活動にも、最終的には協力隊の合格に結びつきました。
早速通っていたオススメの学校を教えてもらい、その場で授業見学の予約をしました。
性格的にその場でやらないと、「またいいやー」みたいな感じでうやむやにしてしまうのが目に見えたので。
そんなこんなでぼくの会社員としての生活と、生徒としてネットワークを学ぶ学生としての二重生活が始まりました。
入校するにあたり、入学金と授業料を一括で払わなければならず、目の飛び出るような金額でしたが、何かのためにとコツコツと貯めておいたお金をすべてはたきました。
お金なさすぎて校長の方とだいぶ値段交渉して、入学金免除とかにしてもらったのですが( ^ω^ )笑
僕が通っていたのはエンジニアが取るような資格で、エンジニアとしては底辺の資格なのですが、ぼくにとってはかなり大変で、一年以上取得に時間がかかり、学校に通っていました。
昼間はサラリーマンとして働いた後なので、特に外回りが多かった日なんかは夜の学校で眠くてよく爆睡してました。笑
本当にもったいない。
ところが時系列は戻り、2年目の10月。
下期に入って、ずっと一年半いなかったOJTもようやくつき(一期上の先輩のOJTだったのに、ぼくがやばすぎて引き抜かれた)、
これから体制整って頑張れる!相談できる!と思った暁に。
自分にとっては父親のように、1年目の時は毎日怒られていた上司が大阪へ異動となりました。
ぼくにとっては愛を注いでくれたのでとても大きな存在だった人でした。フロア中に響き渡る声でめちゃくちゃ怒鳴られたりしたことも何度かありましたが。(あんまり怒鳴るタイプでもないのに)
いなくなってからはモチベーションが下がり、生まれて初めての転職活動もしました。
転職活動で山梨にも行きました。笑
けど最終的に、最終選考まで進んだときに面接官に「ウチじゃなくていいですよね?」と、言われたこと、
そして同期入社した人たちの大好きな顔が、浮かんできて涙が止まらなくなったこと、
が原因で転職活動はやめました。
これは神の思し召しだったのかなって思います。あの時やめていれば今以上に中途半端だったし、同期とも関係性を深められていたなかったし、なによりも協力隊に来ていなかった、
と思います。
協力隊に来ていることが正解だったかどうかはいまだにわからないんですけど。笑
社会人三年目
OJTだった上司が昇進して課長になり、責任感の重さから序盤はかなりキツく感じるようになり、それまでやることはやるけど自由な性格なこの上司が大好きだったのに、少し辛く感じる期間がありました。
ゴールデンウイーク前にやるべきことを忘れて、ミャンマーに10日も行ってしまったから悪いんですけど。
この時の火消しをしてもらってからキツくなりました笑
ただこの上司も基本的に愛があって、だいぶ僕にはいろんな会社員としての新たな経験を体験させてもらい、この上司のおかげで人間的に成長できたと思います。
それまでずっと嫌だった営業の調整の仕事、飲み会の場、お姉さんのいるお店、、、
色々ありますが、同時に仲のいい同期も成長して来て、違う場所で違ったように成長しているので、彼らのやり方を飲みの場などで教えてもらい、上司と相談連携して、実践しながらうまくいって成功を実感できるのはとても楽しかったです。
仕事面でもプライベートでも3年目が1番楽しかったかな。1年目の9月くらいもすごく楽しかったけど。
プライベートでは、自分のイメージでは3年で仕事を辞めるというスケジュールだったので、
本当に辞めるかは別にして、「同期と過ごす時間を大切にしよう」と意識していた一年でした。
それまで同期旅行は大体一年に2回でしたが、この年はバーベキューを5月から11月まで連続7回。(5月の回のみ、ミャンマーで不参加)
旅行は尾瀬旅行、富士山登山、神奈川への川遊び、猿島旅行、那須旅行、上海旅行、カナダ旅行など。かなりの場所へ行きました。
富士山では人生初の死の危機を感じて、より友情が深められたと思っています。笑
なんか旅行抜けてるかな。。。
その中で同期のいい面はすでに見て来て、さらに確認することができた反面、嫌な面も直面することになりました。
旅行中なのにそういった場面に遭遇し、気持ちを整えるのが難しかった時もありましたが、最終的にこの三年目のこのとても濃厚で常に一緒にいた期間があったからこそ、その後さらに素晴らしい関係性につながったのではないかと考えています。
彼らはエネルギッシュで一緒にいて楽しい反面、個々の主張が激しいのでめちゃくちゃ疲れるのです笑 一年目の時とかは結構疲れていたのを覚えています。 今ではそれが面白く感じられるようになったけど。
今まで小学校卒業、高校卒業、大学卒業、の節目節目で友人関係はほぼ断ち切られてた人生だったので、友人はあまり多い方ではありませんでした。
しかし、彼らのおかげで始めて自分から繋ぎ止めたい、一生付き合って行きたいと思える友人ができました。
また、勉強面でも夏頃に無事目標としていたネットワークの試験に合格して、次の勉強のモチベーションが欲しくなりました。
兼ねてから考えていたのはずっと好きなフィギュアスケートを思い切って習ってみる or
社内の出世のためにも必要資格である簿記を取得する
のどちらかでした。
仲のいい、信頼している一期上の先輩に「資格は早めに取っておいた方がいい」と言われていたので、これまた簿記は嫌いな分野で、避けて来たところでしたが、
若いうちじゃないと吸収できなくなると思い、学校へ通うことにしました。
ちなみにネットワークの学校と違い、学ぶ人も多いし、特別な機器を使用しない、ということもあり学費はずっと安かったです。
目標通り、昇格要件の簿記三級は取得できました。
助っ人の先輩曰く、少なくとも二級はないと仕事で活躍させることはできない、という助言があったこと、勉強しているうちに簿記が面白い、と感じられ二級も取得することにしました。
この二級簿記の勉強は、なかなか苦労し、結局四年目の仕事を辞める直前まで続きました。
そんなこんなで仕事も楽しく、プライベートも充実して精神的も成長して自分をコントロールできるようになった濃厚な一年となりました。
と。思い出話を長々と綴って、失礼しました。
この後、具体的にどんな道筋をたどって来たのか、、!記載します。
拙い文章ではありますが、今後とも皆さんどうぞよろしくお願い致します。